昭和50年03月29日 朝の御理解



 御理解 第66節
 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わ  ずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日  柄も何も言わずに駆けっていぬる。」

 まさしくこの通りであります。私は今日はこの六十六節を、いよいよおかげにおかげが受けられ、いよいよお徳にお徳が、広く深く頂けるような頂き方を、今日は皆さんに聞いて頂きたいと思う。おかげにおかげの花が咲く。いやが上にも、お徳を限りなく受けて行けれる。あの世にも持って行ける、この世にも残しておけるという程しのおかげの頂けるような頂き方なんですこの御理解は。
 勿論この御理解では日柄方位と言う事を、昔から日本では言って参りました。金神よけをするとか、日柄がよいの悪いのとこういう。確かに生まれて来る時も、死ぬ時も日柄方位なんかは言わずに駆けていぬると言われるが、私は今日、ここん所を良いの悪いのと言うてという所をです、私共が信心のおかげを頂いて日柄方位だけではない、皆んなおかげじゃがと言えれる信心です。いうならばガタガタ言わずにに、ゴチャゴチャ言わずにそげな理屈っぽい事を言わずにです。
 まるっきりそれが人間の道かのような言い方をせずに、どこまでも一つ神ながらな生き方というものを身につけると言う事。それがお徳を受ける事おかげを受ける事。早いもので親先生がお国替えのおかげを頂かれて、今日が五十日五十日祭が御葬儀の時と同じ斉員の先生方で、沢山の先生方が御参拝になって、今日は十一時からですから皆さんもどうぞご参拝を頂かれますように。お弁当の準備があるから連絡をとってくれと言う事でしたから、あそこへ書き出しとりますけども五六名しか申し込みがなかった。
 そんな事じゃ出来んから、昨日十五名お参りするからと言う事を通知をしておきましたから、まだ余裕が十分ありますから、どうぞ十一時からの新御霊様を、祖霊殿にお移しになる儀式。そして済んで五十日祭になるわけです。私は今日の御理解を思うてです、本当に知者も徳者も生まれる時には何も言わずに、確かに生まれて来てそして親先生の場合でもそうです。亡くなられる時にはそれこそ何も言わずにお出られた。
 私共が四五人枕辺におりましたけども、大坪さん今のごたるこっちゃいかんばい、あげんせにゃいかんばいと、今まで言うておられたけれども、それも言わずに駆けていねられた。まあ随分親先生も、日柄方位こそおっしゃらんけれども、随分ゴチャゴチャ言われましたよね、合楽の場合には。大祭だけだって十六日になったり、二十日になったり。二十日になったり十六日になったり、もうこれ一事だけでもそうです。大祭といえば教会の一番大事な行事。
 今でも信者の中には十六日じゃったろうか、二十日じゃったじゃろうかと、迷う人がある位です。他の事だって随分ゴチャゴチャ言うてみえられた。恐らく御霊様になってあげな事を言わんでよかったのにと、それこそ本当に思うておられるだろうと思います。ですから私共が、本気でその時点時点を有り難く、おかげじゃがおかげじゃがと言うていけれるという信心なんです。
 昨日は竹葉会でしたから、若い嫁さん達の信心研修でした。色々話が出ました中にこう言う事を発表しておりました。子供が今度通信簿を貰うてきた。そこがオ-ル三じゃった。そしたらお婆ちゃんが言われる事がです、今まで家の子供達は学校を欠勤した事がなかった。休んだ事がなかった。所がここの子供は、金光様の何かと言や休ませたりするもんなけん、こげん成績が悪かと言わんばっかりに、繰り返し言われたと言う事です。私としては親の言う事も聞きたい。
 というても事信心になったら、さあ神様事と言う時には、学校を休ませてからでも、大祭なら大祭には、お参りさせるというわけです。だからここはどういうふうに頂いたが良かろうかと言う。これは私は切実な同じような問題を、みんなが抱えておる事に、改めて驚きました。その事だけでなくてとにかくどっちつかずという。どうしたが本当かと言う事なんです。子供を学校を休ませてなるほど休んどるのは、みんな大祭の時やら霊祭の時ばっかりなんです。
 それをお婆ちゃんは信心がないもんだから、あんたが金光様の何かと言うと、休ませるから成績が良くないというふうに言われるわけです。それかと言うて言い訳をすりゃ、そこに親子喧嘩になりますから黙って聞いておった。とにかく心を神様に向けて行っておるのだから、それで自分はよかろうと思うけれども、こういう場合にどういうふうにあったがよいかと言うわけであります。ある人はお婆ちゃん八十からでしょうか。大変おかげを頂いたお家ですから、それこそ洋服でも着物でも。
 お年寄り向きの立派な着物を作ってやっておられる。所がお婆ちゃんと言うたら、わざわざ悪かつから着るというごたるふうで着て、しかも出てきなさる。それで嫁さんとしては、それじゃ恥ずかしいわけですよ。いうなら作ってばしならんごと、親孝行しよりばしせんごと。それである時、娘さんが嫁入っておられます。その娘さんが見えた時に家の婆ちゃんなこげなふうと言うて、娘さんに話された。所が娘さんが言われる事がです。私の方あたりもそげんばってんが、親孝行と思うて言わんとこう言われる。
 大体こういう場合、どう風に頂いたが本当だろうかと言うのです。確かにこういう問題が、どこにでもあるですね矢張り。昨日一昨日でしたか、筑水連合会の信心研修が、旗崎教会でございました。秋永先生が司会を承ったそうですが、素晴らしい司会であったし、信者の一人一人の問題を、それこそ胸のすくような答弁で、皆がおかげを受けたという話をしておりました。その中にある御信者がです。家には息子の嫁ごを貰わんならんけれども、どうか一つ信心のある所の娘を貰いたいと思うとこういうのです。
 そしたらそれをある先生が、そう言う事を言わずに、信心のない所から貰わにゃいかん。そしてその嫁を信心に導いて行くという事の方が、金光教の信心の発展にも繋がる事だから、必ずしも嫁さんを貰うのに、信者がよいの信者でなくてはいけないのと言わずに、信心の無いところからでも、貰うてそれを信心に導くのが、ほんなことじゃないですかと言うたけど合点がいかん。そこで秋永先生が言われた。そげな事はどげんでんよかがと。私はそれを聞いた時に、素晴らしいと思いました。
 私共がこうが良いのああが良いのと言う所に、今日の御理解じゃなかばってん、ゴチャゴチャ言わんならんとですよ。そげな事はどうでんよかがち。おかげを頂いて信心者の娘を貰うかもわからないし信心のない、本人達が問題は幸になると言う事が結婚の第一条件なんだ。それを親がどうのこうのと言う事はない。本人が気に入りゃ信心のある者でん無か者でんよか。そこからの信心が大事だという話をした。それを聞いてから本当に素晴らしいなぁと思いました。
 信心が少し出でおると見事にそれの答弁というか、腹入りができるように言ってやれる訳ですよね。確かにそうなんですそこで今の昨日の竹葉会で、皆がそういう様な問題は持っておるこげん時、信心はどうしたがほんなこっだろうかと言う様な場合に直面した時です。どうにも仕様がないなぁそういう問題は、どこにでもある問題だけれども、それはと言う訳にはいけんなと、こう言う事ですけれども、秋永先生が答弁されたと言う、そのことからヒントを得た訳なんですけども。
 とにかくそげな事はどげんでんよかがと言う事なんです。例え婆しゃんが良か着物を作ってやっとっても、一番悪かつから着て来るがたるこつをさっしゃる。成程人が見たらあそこは嫁後さんが、婆しゃんば構いござらんじゃろうかと言われちゃならんと言う、一つの見栄があるからそう言う様になる。実際心から尽くしときゃええ。婆しゃまが日に五回も風呂に入んなさるげな。そういう時に又入りござると言わずに、入りなさる頃にはちゃんとこっちの方が。
 湯加減を見てやったり返って、そういう風にしてあげたらどうじゃろか。そげん入りなさんなてん言わずに、又入りよると思うのじゃなくて、又あげな汚か着物着てきとってと言わずにです。そげな事はどうでも良いと。婆しゃまはよかごとさっしやる、成程娘さんが言われる様に親孝行と思うて、言わんちいうようなです。そこに例えば通信簿が悪かった。それでそこのお婆ちゃんは信心がないから、金光様のいろんな時に休ませるから、成績が良くないと言われた時にです。
 私はおかげを頂いておるから、そげなことじゃないと思うけれども、いいわけをしても信心のない者にはわからん。そこでです結局、最近言われるように、大きくなれ大きくなれと、心に号令するより他にないと言う事です。そこには皆さんも御承知の様に、金光様の信心は、受けものさえ出来れば、絶対おかげは受けられるのですから。小さい受け物じゃ小さいおかげ。大きな心の開けてくる大きな心になったら、絶対大きなおかげが約束されるのですから。
 だからそのようにして大きな心を、神様が作らせて下さると思うと、そのお婆ちゃんの姿にも、又そのお婆ちゃんの理不尽な言い方にも、神様がこんなにして心を大きく豊かにして下さるとお礼が言えれる様なおかげも頂かれるねと言う事で結論になりました。私は、この生き方で行けばです、日柄の方位のと言わんでも、ゴチャゴチャ言わなくってもです、又、心気病む事もない。
 神様が大きゅうなれ大きゅうなれと言うて下さってあると言う事は、大きなおかげを下さろうとしておる神様の働きだと頂く時に、何も言わんですむ。そん時にはまず自分の見栄を捨てなければいけん。自分の我情を捨てなきゃいかん、自分の思いを捨てなきゃいけん。そういうふうにして、例えば大きくなると言う事の内容の中には、我情我欲を捨てさせる働きがあるのです。だからわが身は神徳の中に生かされてある。次の喜びを感じられるようなおかげが受けられるのです。
 一つおかげを頂いてです。お互いが日柄もい言わずに出てきておる。方位も言わずに死んで行く。そういう人生を思うた時です。途中だけゴチャゴチャ言うような事を言わんですむ信心を頂きたい。それが六十六節。私は六十六節と言う事は六のプラスの六と言う事は、徳にプラスにまた徳、おかげにおかげの花が咲き、いやが上にも徳を受けて行くという御理解に今日は、そいうふうにアレンジして頂いたわけです。
 ここでは日柄方位と言っておられますけれども、今日私は日柄方位というてガタガタ言うと言う様な、愚にもつかない事をいうわけなんです、日柄方位を言う事は。だから私共が、愚にも付かない様な事を、十六日が良いの二十日が良いのと、親先生の場合言うてみえたわけです。お国替えになって五十日祭、本当に立派な御霊様の位も受けられて、始めて合楽の場合、それは勿論親心からです。少しでも合楽がおかげ頂く様にと思うてからの親心ではあるけれどもです。
 ああもうガタガタ言わんで良かったと、是と御霊様が恐らく笑いよんなさるじゃろうと思います。今日はそういう考えというか、私と親先生の間の上に様々な問題が沢山あった。その為に矢張り親である為に、師匠である為に色々言うてもみえた。けどもあげな事は言わんで良かった。黙って祈っときゃ良かった、と改めて御霊様が思いよりはしなさらんじゃろうかと、私は今日思いました。だからこれは親先生だけの事じゃありません。お互いがですそれにはまずプライドを捨てなければいけません。
 自分の我情を捨てなければいけん。自分の思いというものを捨てなければいけん。勿論エリ-ト意識なんかと言うものは、もっての外です信心させて頂いて、お徳を受けて行く為には、こげん邪魔する事はありません。だからお徳受けていく為に邪魔になる心を取りはずして行く。取り外さなけれは出来ない程しの働きがです、大きゅうなれ大きゅうなれと言う事の中には内容にあると。いうならば馬鹿と阿呆で道を開けという、馬鹿と阿呆になるという事なのです。大きくなれ大きくなれと言う事は。
 そこで私は自分の心の中に、号令をしなければいけない。小さい感情自分をちっとでも良く見せようとする様な、ケチな考えがあっては、お徳は受けられないです。もう出たとこ勝負そこが恥ずかしい場であったならば、それを恥ずかしいとしてまともに受けて、修行して行くが一番本当です。人前を繕わずに、神様の前を繕うて行かにゃいかんです、信心は。それがお徳を受けて行く道です。
そこで自分の心の中にゴチャゴチャ言いたい、ああでもないばいこうでもないばいと、口煩く言わなければおれない時です、あぁ今は自分は愈々人間がこもうなって行きよる時と思うて心に大きな声をもって、心に呼んで私は大きくなれ、大きくなれを言わなければいけない。私共も兵隊に行ってから、上官の人が大坪ち言うとハイち言う。大坪ち言いなさるとハ-イち言うてから、直立不動の姿勢をとっでから。
 人間と言うものは妙なものです、小さく言われると大坪と言われると、ハイと大坪っと言われるとハ-イと言うものです。ですからどういう小さい事であっても、兵隊では大きく大坪といわれると、答だけはハ-イと言わなきゃならんごとなっとる訳です。だから私共は心に号令をかけるでもです、小さい声ではできんです。大きな声で、大きゅうなれ大きゅうなれを、私は叫ばなければいけない。
 もう愈々ジカジカするモヤモヤする、どうにもしようがない時には、愈々大きな声でです大きくなれ大きくなれを、それこそ本当に声を出しても心に号令をかけるような、心掛けが、いよいよおかげにおかげの花が咲く程しのおかげ。金光様の御信心の一番素晴らしい事は大きゅうなれば、絶対おかげが大きくなるです。美しゅうなればおかげも美しゅうなるです。これは本当にその通りなんです。
 だから大きなおかげを、お互いが願っておるのですから、大きなおかげを頂く為には、そこんところの修行させて貰わなきゃならない。しかも大きくなれ大きくなれの内容の中には、いうなら我情我欲を取りはずして行くとか、つまらんエリ-ト意識とかプライドなんかを捨て切って、神ながらな道を歩かせて頂くのですから、徳に徳が受けられる六に六が重なって行く様な、おかげの受けられる受け方、生き方を今日は六十六節から聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。